Essay~徒然なるままに乱筆乱文~


コンクールの意味 (JMU2012年5月号投稿分)   井上 泰信


私自身がマンドリンを始めて2年目の秋、偶然聴きに行ったのが「第11回日本マンドリン独奏コンクール」でした。
当時何も知らなかった私にとってその衝撃はあまりにも大きく、まだ中学生の自分が“世界で一番上手い”と思っていた同じクラブの先輩が入賞できなかったことや、別の学校の女子高生が入賞したことなど、そのショックは翌日から「自分もソロをやってみたい、入賞したい」という気持ちが生まれるきっかけとなりました。そして次の日には三条の十字屋に行って、弾けもしない“ツィゴイネルワイゼン”やカラーチェの協奏曲の楽譜を買い、とにかく真似事ながら練習に没頭したのをよく覚えています。

とにかく「ソロコン」に出たいという気持ちで高1から木下正紀先生のレッスンに通うようになり、高3の時にコンクールに出場することができました。そしてその翌年、高松の宮武省吾さんのお誘いで、ドイツ・シュワインフルト市で開催された「第1回国際マンドリンコンクール」に出場しました。このシュワインフルト市でのコンクールは、その会場に着くまで誰が参加しているかも分からないし、どんなレベルかも分からない。与えられた情報は課題曲と審査員のみ、そしてその審査員も越智敬先生以外誰も知らない・・・(当時はインターネットもありませんでした)という、今思えば過酷な条件でのエントリーでした。それでもエントリーできたのは、まさに「若気の至り」です。

会場に着くと、自分よりもはるかに年上で、しかもCDなどで一方的に知っているヨーロッパ中のプロの奏者がエントリーしているという、あまりにも大きなコンクールであることをその場で知りました。同時に、色々な国の様々な音楽のスタイルや文化を、生で体感する絶好の機会となりました。エントリーの高いレベルによる演奏の数々や、自分があまり知らなかった「現代音楽」の世界、コンクールの合間に行われるゲストの圧倒的な演奏、会場ロビーでの見た事のないドイツ製の楽器や楽譜の展示、、、当時18歳だった私には最高の経験でした。4位という結果発表後、自分の演奏への不甲斐なさと実力差を痛感し、会場で大泣きする自分に対してすぐさま駆けつけてくれたのは越智敬先生でした。そしてこの第1回のコンクール出場で、同じ目標を持って練習に励んできた世界中のマンドリニストと友人になることができました。この時知り合った多くのヨーロッパの奏者たちは、今なお奏者や教授として世界を駆け巡っている素晴らしいトップアーティストです。そして今もなおその友情は“大阪国際マンドリンフェスティバル”につながっています。

その年の秋、第14回のJMUソロコンで何とか1位を頂き、大学卒業前にはリサイタルも開催。その後会社員への道を選び、半年ほど過ぎたときに、今度は神戸の桑原康雄先生からロシアで初めてマンドリンのコンクールがあるので参加してはどうか、とメールが来ました。サラリーマン、しかも新卒1年目の人間が二週間の有給休暇、そして少しずつ落ちていく自分の技術への焦り、色々と考えた結果、無理をしてでも挑戦することにしました。計2週間、9曲の課題、そしてドイツの時同様に何も分からないレベル・・・あらゆる未知の世界への挑戦は、ドイツでも考えられなかった「撥弦楽器」の超絶的なレベルを体感する貴重な機会となりました。ドムラ・バラライカ奏者の圧倒的な技術・音楽、そして人生を賭けてコンクールに挑む真剣さ、町をあげての大フェスティバルという規模・・・そしてここでもロシアの偉大なる音楽家たちと友人になることができました。特に会場で聴いた審査員たちによるコンサートは生涯忘れることのない感動があり、またコンクールとしてとても説得力のあるものでした。

実は私はこのあと、1999年の第2回目のドイツ・シュワインフルトでのコンクールに出場しました。このコンクールへの入賞を「プロ」として活動を開始するスタートにしようと思い、合わせて会社員生活を辞めて、努力を続けました。しかし、結果は1次予選での敗退でした。発表後の会場では名前を呼ばれなかった瞬間のショックで呆然とし、同時にプロ生活を選んだことへの後悔や、渡航費などの経済的なマイナス負担など、ありとあらゆることが頭の中をめぐりました。そして敗因は明確でした。入賞できると明らかに自惚れていたのです。そしてその夜、審査員であった桑原先生が慰めの小宴を開いてくださいました。そして先生も同じく「コンクールに入賞できなかった」一人であったことや、それを原動力にされたことなど、貴重な話を聞かせてくださいました。

その後、JMUの皆様方の努力により、日本マンドリン独奏コンクールも少しずつ“世界基準”に育ってきました。一方、桑原先生による「神戸国際音楽祭」は回数を増すごとに内容を深化させ、私がヨーロッパやロシアで聴いたアーティストによる生演奏を、日本で体感できる唯一のフェスティバルとして大きな意味を持っていました。
そしてその最中での桑原先生の急逝は、私にとっても日本のマンドリン界にとっても、余りにも大きな痛手でした。またこれと同時期、ロシアやドイツの国際コンクールも少しずつ経営状況が悪化し、定期的な恒常開催が困難なものとなって来ました。そしてこの現状を打破すべく、また自分が経験してきた「国際コンクール」という貴重な舞台をもっともっと若い世代に知って欲しいという願いのもと、「大阪国際マンドリンフェスティバル&コンクール」の立ち上げに至りました。

世界の様々な国際コンクールに自身が参加して、その経験の上での「大阪国際」なのですが、実際“マンドリン独奏”や“作曲”のカテゴリー自体、なかなか一般のマンドリン愛好家には遠い存在である事を認識しています。そして昨年、新しいカテゴリーとして「ドラ・チェロ・リュート」という中低音楽器の為の独奏コンクールを開催する事が出来ました。この試みは成果としても大きく、今後続けていけなくてはいけない事業であると思います。そして若い世代のプレイヤーが、新しい刺激と学びの場としてこれからも更に「コンクール」を活かしてくれる事を願い、益々の発展に向けて更に努力したいと思います。

そして今年、遂に「合奏コンクール」に着手します。この号が発行される頃には出演団体も決定しているかと思います。高校生には「全国高校ギターマンドリンフェスティバル」がありますが、“フェスティバル”である以上、コンクールとしての機能や価値には限界が見えています。逆に大学生や一般団体には、具体的な目標や演奏の良否を決める判断材料がなく、専門家からのアドバイスを受ける機会もそう多くありません。マンドリニストの9割以上が参加しているであろう「マンドリン合奏」というフィールドに、マンドリンの事を誰よりも知っている様々な立場の審査員からの講評や採点は、
各団体の今後の指針や、良い演奏を目指す上で大いに役に立つ事だと思っています。具体的に順位を付けるコンクールではありませんが、全国の仲間が同じ課題曲を自分達なりに解釈し演奏し、それを会場で聴くという体験や、自分達の録音を通して、そのスタイルや演奏の質を見直すという場も、これからマンドリンという世界が吹奏楽や合唱の世界に追い付くために必要であると考えています。ただし、この大会は大企業の協賛の元に開催される訳ではありません。それでもマンドリンの未来の発展の為に必要だと思うからこそ、リスクを承知で開催・運営を行います。順位に一喜一憂するもよし、演奏を聴いて自己採点するもよし。是非ともコンクール会場に来て、見て、聴いて、体験して欲しいと思います。

次回は「課題曲を演奏する事」について書いてみたいと思います。
もちろん今回の合奏コンクール課題曲や、JMU独奏コンクール課題曲に関しても、一人のプレイヤーとして思うところを書いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年の龍大マンオケの部内誌「群れ」に投稿した原稿です。そのまま。

 

 

 

締め切り2時間前に思う乱筆乱文

      龍谷大学マンドリンオーケストラ技術顧問 井上 泰信

 

僕が大学4回生だった最後の春、弾き納めのつもりでリサイタルを開催し、その後サラリーマン生活を開始する。就職活動は現在と同様「氷河期」と呼ばれる時代。当初はサラリーマンには魅力を感じていなかったが「教師」という存在には興味があり、大学で教育学を専攻していたこともあって一度は教員採用試験への道を考えた。が、教育実習が大学(同志社大学)のマンドリンクラブ定期演奏会とかぶってしまい、敢え無く断念。その代わりに教育業界への就職活動を開始する。結局は「やっててよかった公文式」の(株)公文教育研究会に入社。結局23カ月山口県でサラリーマンの後、現在のマンドリニスト生活を開始。

「マンドリンでは食えない」という確信もあったが、それ以上に「音楽以外の仕事」に興味があった自分は人よりも遅く就職活動を開始した。また、当時の同志社大学マンドリンクラブというのは、指揮者=留年して当たり前という風潮があり、勉強よりも音楽、就職活動は5回生になってから・・・という雰囲気に嫌気がさし、ただ卒業の為に勉強も人並みに頑張った。

その当時「音楽しかできない人間」が嫌いだった。その上「留年」が嫌で仕方が無かった。最もはやはり親や家族に対する「恥」の部分であったし、留年しては親に本当に申し訳ないと思った。カッコ悪いと思った。クラブを理由に当たり前に留年してしまう風潮の裏に、留年を許される裕福な家庭の姿も見えていた。それは我が家ではまず許されなかった。

僕は現役の皆やレッスンに通う子たちにも「留年だけはするな」を伝えている。理由は色々あるのだが、分かりやすい例を挙げるならば「いくらの損になるか」ということである。恐らく「1年分の学費+生活費」と想像すると思われるのだが、実際は1千万円を裕に超える損失であることを理解してほしい。22歳で卒業して普通のサラリーマンなら定年があるわけで、約38年間職務に就くのが通常である。1年間留年すれば37年間の就労になり、22歳でも23歳でも「新卒」である以上、給与は変わらない。要は退職前の1年間の給与が生涯賃金の差になるわけで、2年も留年すればその分新居一軒分変わると言っても過言ではない。「退職前の年収+1年間分の学費+生活費=留年代」である。

そして4年で大学を卒業することは、決して「奇跡」ではなく「当たり前の事」でしかない。

ただし、留年をしたからこそ得られるスキルもある。例えば留学による語学能力の取得は費用と時間に対する効果としても大きいかもしれない。逆にただ公務員試験を受けるためにただ何年も専門学校に通ったりすることは、僕は善策だとは思えないのである。ただただ授業も出ずに目的もなく過ごすのであれば、それは人生において無駄というより他ない。ただし結論からいえば単位取得のノウハウさえあれば、何をしてもいい・・・というのは言い過ぎにしても、その辺の要領の良さは社会に出てからの重要なスキルとなる。持つべきものは友人と情報である。それでも興味のある授業だけは一生懸命に聴いて、自分のスキルにして欲しい。そうでないものはとにかく単位を獲得して欲しい。簡単に放棄するのは「要領が悪い」。

大学生だからこそできる活動は、僕自身もそうであったように「クラブ活動に没頭すること」である。これだけ音楽という趣味にひたすら時間を費やすという行為は、客観的に見れば時間の無駄使いと思えるかもしれない。しかし、人生の中で、これだけ集中して取り組める時間は定年を過ぎるまでに今しか存在しないのではないかと思う。要は「人生最後のクラブ活動」とも言える。そしてこの4年間の中で一緒の時間を過ごした仲間と結婚したり、子どもが出来たり、結婚式に呼ばれて演奏したり、2次会を企画したり、一生年賀状を交換したり、お葬式の世話までしたり・・・と「死ぬまで付き合う仲間」と出会うことが出来るのもこの大学サークルの魅力であると思う。高校の友達よりも永く付き合うのは、やはり大学のサークル友達である。もちろん結婚するのも然り。

ただし、その「死ぬまで付き合う仲間」と成りうるためには、「真剣にクラブをする」事が条件であるし、最後の定演を一緒に迎え、涙し、同じ空間に感動してこそ「仲間」と成りうる。だからこそクラブは途中で辞めて欲しくないし、やるからには一生懸命やって欲しいと切に願うわけである。上手い下手ではなく、である。僕が常日頃思うのは、この龍大マンオケの中で本当に「一生懸命」に頑張ってやっている人と、「何となく」所属している人・・・に二分されている気がする。もちろん音楽が好きで入った人もいれば、空気が楽しそうで入った人もいるのは当たり前の事なのだけれども、いま一つ全体の空気が熱くなりきらないのは、その辺りが大きな原因であると思う。

「元々音楽が苦手だった」とか「あの先輩が引退したから嫌だ」「向いてない」と様々な理由を元にマンオケを去っていく人たちがいる。もちろん家庭の事情ややむなき理由があるにせよ、やはり僕はそのことを「勿体ない」と思ってしまう。入部したのは「偶然」であるにせよ、やっぱり「縁」である以上は自らで切って欲しくないのである。そしてもし辞めるにせよ、絶対に皆が納得し、気持ちいい形でクラブを去って欲しいし、もし辞めたとしても定演には聴きに来て一緒に感動できる仲間として退部して欲しい。

皆さんには「中途半端」で終わって欲しくないし、やるからには日本で最も素晴らしい演奏のできる、日本で一番感動できる、何より卒業しても家族や同僚に「自慢」のできる存在に、この龍大マンオケを育ててほしいと僕はいつでも強く願っている。だからこそ高いハードルを僕は設定するし、またそれを乗り越えて欲しいし、その向こうに喜びと「頑張った」という自分への自信、そして一生を共にするであろう仲間の存在があることを忘れないで欲しい。

話が一気にずれてしまったが、僕自身最近結婚式に呼ばれることが多い。そして共通項として「音楽を続けている事」が多い。かの丸本大悟君もそうであるし、皆さんの近い先輩では荒川望さんと山崎達也君(共に40回定演OB)の来春の結婚も音楽を続けた結果であると言い切れる。でもその背後には「クラブに対しても一生懸命であったこと」が理由としてあるし、一生懸命やったからこその価値感や信頼関係が、その礎になっているように思う。皆さんには楽器が上手くなって欲しい、音楽が出来るようになって欲しいという願い以上に、このクラブで人間としてのスキルや社会生活を通しての集団行動の難しさ、他人の意見を聞き取る能力などを含め、「今しかできないこと」「クラブだから学べる事」を目標に、とにかく頑張って欲しい。企業や社会が最も欲する「魅力的な人間」とは、学問以上の何かを持っている人、つまりは勉強もクラブ活動もバランスよくありながら、求められる以上の結果を出す人間、と僕は思っている。

もうすぐ原稿をフレッチが原稿を取りに来る。そういえばウッチーも来る。

最後にまとめるならば、とにかく留年はするな、クラブは一生懸命やれ、引退まで頑張れ、辞めるにしてもキチンと気持ちよく辞めろ、結婚しろ、途中で別れたりするな、2次会も同期でやれ、葬式まで付き合える仲間を見つけろ。

良いクラブは良い演奏を生み出し、良い演奏は良い仲間の証である。

良い組織は良い社会性を生み出し、良きクラブ活動が良き社会人を生み出す。

良い演奏会を目指し、あと少しの時間、とにかく一生懸命に。           乱 筆 乱 文 失 礼

 

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